空手は空手
空手は武術だろうか、それとも武道だろうかと、随分長い間悩んでいた。
武術なら人殺しの技であり、武道、つまり武士道ならば、侍としての生き方の問題である。武士道ならば、教育になりうる。
俺は「人殺しの研究」をしているのだろうか?
人を殺しておいて、礼に始まり礼に終わるなんて、あまりにも綺麗ごとでははいか。
ある日、ふと気がついた。
空手は空手じゃないか。
なーんだ。
俺はただ、空手の研究をし、稽古をすればいいのだ。
本当に命のやり取りをする瞬間が来なければ、本当の意味はからない。
空手の目的は、空手だ。
生きる目的は、生きることであり、本を読む目的は本を読むことである。
その行為の中に、目的そのものがあるのであって、よそにあるのではないのだ。
心が正しくなるか、礼儀を重んじるように指導はするが、ほんとうにそうなるかは、稽古をした「後」にしか、わからない。
どのように生きるべきかは、その人が決めるべきことであって、誇り高く生きなければならない、なんていうのは傲慢な考え方だ。
武道の高段者で、人間性に問題がある人は、沢山いる。
しかし、さすが武道家と思える方も、確かにおられる。
空手稽古の体系の中に、あるいは技そのものに、それらがきちんと感じ取れる何かがが含まれていれば、自ずとそのようになっていくのではないだろうか。
空手によって、人として成長させることが出来るかどうかは、「指導者側の問題」だと思う。
教育者として、胸の内にそのような強い信念を、隠し持っておきたいものだ。
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